長いお別れ

whistling a merry tune I never heard before

暗闇じゃ前もクソもない

雨のせい。そう言い切れれば。気圧のせい。そう納得できれば。みんなのせい。そう転嫁することができれば。
そうすればきっと今よりずっと楽に命を続けていけるのかもしれない。自分のせいじゃない。そう心から信じることができればきっと。

さて、退職届を投函した。明日には届くだろう。休んでいる間もずっと無職だと自称してきたけれど、来月の一日からは本当の本当に無職になる。どこにも属さない。何にも貢献しない。子どもでもいれば言い訳の一つもできただろうけれど、ノーキッズなので、無職であることのすべての原因は自分にある。わたしが個人的に弱すぎたから、個人的に適応力がなかったから、個人的に甘え体質だから……エトセトラエトセトラ。

誰も彼もから見捨てられても仕方ない。見限られても諦めるしかない。
自殺したさが半端ない。それか、不謹慎なことを言えば、重篤な病気にかかりたい。わざわざ自殺せずとも近いうちに死ねるような、そんなやつだ。

あなたが虚しく過ごした今日という日は、きのう死んでいったものが、あれほど生きたいと願ったあした

そんなこと知らないよと思う。誰が好んで虚しく過ごすだろう? 誰だって楽しくて嬉しくて幸せを感じながら充実した一日を過ごせた方がいいに決まってる。それがどう頑張ってもできないから、この現状があるわけで。

まあ、それはそれとして。唐突に話を変えるけれど、わたしは大人の誘い受けには基本的には乗らないようにしている。それによって自分で自分に失望することがあったとしても。また、誰かを傷つけるときは自覚的でありたいと思っている。そのことが自分自身の価値を無限に下げるような振る舞いであったとしてもだ。

そんな自分の底意地の悪さと比べると、周りにいる人の公平さ、親切さ、寛容さは輝いて見える。たぶん実際以上に心に刺さる。そうしてみんなのことを好きすぎてしまう。
「この世界に生まれて本当に幸せ」なんて言えやしないけれど、世界がまあまあ捨てたものではないことはわたしだって知っている。愛情や友情といった生きてく意味そのものみたいなものも、全部持っている。

それなのにどうしてって言われたら答える言葉を持たない。それとこれとは別なんだよ、くらいのことしか言えない。
誰かを愛することくらいで、誰かに愛されていることくらいで人が前向きに生きていけるものなんなら、わたしだってそれがよかった。絶対にそれがよかった。

Let it be...

自分の性格の悪さはそういうものとして許容しているつもりだけれど、唐突に嫌になるときがある。とてもじゃないけど耐えられない。元来の底意地の悪さにさらに拍車を掛けるIQの高さ。IQの高さ? 高いんですよ。主治医に見たことないって言われたくらい。でもまあIQなんて心の強さに比べたら人生への貢献度は低いので、自慢にも何にもならない。心の弱さはすべてを台無しにするのだ。

とにかく、自分が他人に対してものすごい性格の悪さを発揮すると、自分自身で引く。どうしてそんなことができるのだろうと、自分自身で疑問に思う。

そういう1日だった。具体的に言葉にするのも憚られる。
そして、そのせいで、というわけでもないな、いつもどおりか、自分の心のバランスを保つことができない。ゲームをしているとき以外全部つらい。

こんな人生がいつまで続くんだろう。オランダで自殺用の機器が開発されたらしい。
それをくれよ。

けど死なないと約束したしなと、本当それが命綱だった。そうでなければ退院して二週間半、どこかで自殺してたんじゃないかな。どうなんだろう。所詮わたしはファッションメンヘラなんだろうか?
どうでもいいや。結果として生きてることが多分大切で。

生きねばなあ。ほんとかよ。いやだなあ。でもやるしかない。
息を吸って吐くだけの簡単なお仕事だ。なんとかなるさ。

かなしみのなみにおぼれる

毎日河原を歩いている。それは犬の散歩であったり、スーパーへ向かう道であったりするのだけれど、とにかく1日のうちに河原を全く歩かないという日は無い。
水が集まっている様を見るのがとても好きだ。それは川であったり、海であったり、プールであったり、もっと言えば家の浴槽でもよく、とにかくひとかたまりになった水を眺めていると心が落ち着いてくる気がする。

けれど河原を歩くことは、わたしにとって、そういったポジティヴな気持ちを喚起するだけではない。それとは逆に、つらいことや苦しいことを思い起こさせるものでもある。

昨年の9月、緊急で入院したあの日、わたしはまさに河原にいてじっと水の流れを眺めていた。生い茂った芝生の間にちょこんと腰掛け、様々なことに思いを馳せていた。これまでのこと、これからのこと、生きていくこと、それをもう放棄すること。家族のこと、夫のこと、仲良くしてくれる友だちのこと、疎遠になった知人のこと。死んでしまった人や、まだ生きている人のこと。とにかくいろいろなことを考えていた。

もうわたしは死んでしまうつもりをしていた。というよりは、これ以上生きていくのは無理だと明確にそう思った。溜め込んだ薬を持って、本当は海に行きたかった。けれどとにかく苦しくて辛くて海まで行く元気が無かったものだから、すぐ近くの河原に向かった。晴れていて、日差しはまだ強く、生い茂った草の周りには大きなクマバチが飛んでいて、夏の延長のような気配があった。でもからっとした空気にはうっすらと秋の匂いがするようで、それだけで理由も無いのに泣けてくるほどだった。

河原を歩くと、その日のことを思い出してしまう。なぜ死んでしまわなかったのだろうという後悔も感じる。あの日死んでいれば、もう何も感じなくて済んだのに。
でもそれは「多分」とつけて語られなければならないだろう。なぜなら死んでしまったことが無いため、本当に何も感じなくなるか確証は持てないからだ。あらゆる死への期待は、すべてただのわたし(たち)の希望なのであって、実際に体験したときにはその期待が裏切られる可能性は十分にある。そして死んでしまえば時はすでに遅く、生きかえろうと思っても生き返れない。でもそうだとしても、仮に後悔する結果となったとしても、そうせざるをえないことだって、あるのだ。

そういうわけで夕焼けの河原を一人とぼとぼ歩いていると、もう自殺することしか考えられなくなる。けれど「当面は死なない」と約束してしまったから死ねない。
死にたいのに生きていくというのは、健康な人が思っているよりもおそらくずっとつらいし苦しい。

もういい加減立派な大人なのにね。


この文章は泣きながら15分で書かれた。

約束

入院して、退院した。
元気になって退院したわけでは多分ない。なんとか自宅でやれそうになったからくらいのイメージだ。

自分を今支えてるのは、愛情と友情と主治医とした約束。
そのどれが欠けていても、退院する程度まで回復することはきっとなかったのだと思う。あやうく長期入院になり、転院させられるところだった。危ない。きっと辺鄙なところにある病院だ。たとえば七国山とか。

帰ってきて、毎日何時間も何時間もゲームに興じている。それ自体はとても楽しく、幸せな時間を送れている。
けれど、家事をするとき、買い物に行くとき、犬の散歩に行くとき、なんとなく河原を歩いてみるとき、入院する前と同じようにひたすらつらい。きつい。耐えられないと思うこともある。けれど実際には耐えているわけで。そもそも気持ちと行動は必ずしも一致するものではない。気持ちという点で言えば、退院した今だって、超死にたいし超自殺したいしそういう気持ちはきっとなくならないのだと思う。主治医も看護師さんたちもみんなそう言ってたからだ。しかし、死なないのだ、わたしは。なぜならそれは「当面の間は死なない」という約束をしてしまったからだし、わたしは約束を守る方だからだ。でも実を言うとその約束は、破ることだってあり得ると思っている。それはまあそのときにならないと分からないけれど。

そういうわけでまたぼちぼち、みんなと、長いお別れをしていきたいと思う。いつかくる別れの日まで、言葉を綴ることを止めることはわたしにはきっとできないのだ。

I just can't stand myself

家の裏を大きな川が流れていて、そこではいつも子どもからおじいさんおばあさんまでさまざまな人が釣りをしたり犬の散歩をしたり電車を眺めたりただぼーっとしたりしている。川は決して綺麗とは言えないけれど、ゆったりと流れるたくさんの水を見ているとほっとした気持ちになるのは確かだ。やっぱり最後は海か川だよなあと思う。火の鳥未来編のロックではないけれど、雄大な景色を眺めながら人生の一巻を終えたい。

通り一遍の内省をしてもメタ視を心がけても心というのはままならないもので、もうどうしようもない。あと1日あと1日と期限を延長しているだけに過ぎず、その生き方はおそらく想像するよりずっと苦しい。

さて。
仕事柄嘘をつかれることや約束を破られることは慣れているけれど、それでも実際に身近な人にそうされるとやるせない気持ちになる。けれど自分もそうなのだろうなと思う。気付かないうちに嘘になっていたり約束を破ったり多分している。そういうことの繰り返しが生きていくということか。

どうして人並みにやっていくことができないんだろうと思う。でも考えたってそんなの仕方ない。薬は増え、頭がぼんやりとしている間に時間ばかりが過ぎてゆく。眠っている間にほとんど1日が終わる。誰かにきっと言い忘れた言葉や、誰にもおそらく言わないほうがよかった言葉が、心に次々に溜まっていく。

ねえ、放っておいても一生はすぐに終わる。でもそのほんの少しがどうしても耐えられない。

神の手の中にある

真夏日と言っても夕方の空気はもう秋だ。日も短くなった。夏の間あれだけ咲き誇ってた道端の花はやがて枯れていく。それは花そのものにとって悲しみや寂しさを感じさせるものなのだろうか。分からないけれど、見ているわたしたちは命の儚さを感じる。人間だけ特別なんてことはきっとないだろう。

本当に、ここらでもういいかなと思えてくる。投げやりのような、達観のような、自分でもよく分からない。もう限界で、まあそれを誰かにわかってほしいわけではなく、ただただ疲れたなと思う。

そんなことをぼんやりと考えていると、電車の窓からびっくりするほど綺麗な夕焼けが目に入り、胸が痛くなる。こんな風に生命の色に染まった街で、人生を投げ出そうとしてるのだ。許されるだろうか。とか、この期に及んでも誰かの許しを請うのも笑えてしまう。

綺麗な景色のままというのも、一興。あとほんの少しの勇気できっとどちらにも振り得るんだ。神さま!