長いお別れ

whistling a merry tune I never heard before

かなしみのなみにおぼれる

毎日河原を歩いている。それは犬の散歩であったり、スーパーへ向かう道であったりするのだけれど、とにかく1日のうちに河原を全く歩かないという日は無い。
水が集まっている様を見るのがとても好きだ。それは川であったり、海であったり、プールであったり、もっと言えば家の浴槽でもよく、とにかくひとかたまりになった水を眺めていると心が落ち着いてくる気がする。

けれど河原を歩くことは、わたしにとって、そういったポジティヴな気持ちを喚起するだけではない。それとは逆に、つらいことや苦しいことを思い起こさせるものでもある。

昨年の9月、緊急で入院したあの日、わたしはまさに河原にいてじっと水の流れを眺めていた。生い茂った芝生の間にちょこんと腰掛け、様々なことに思いを馳せていた。これまでのこと、これからのこと、生きていくこと、それをもう放棄すること。家族のこと、夫のこと、仲良くしてくれる友だちのこと、疎遠になった知人のこと。死んでしまった人や、まだ生きている人のこと。とにかくいろいろなことを考えていた。

もうわたしは死んでしまうつもりをしていた。というよりは、これ以上生きていくのは無理だと明確にそう思った。溜め込んだ薬を持って、本当は海に行きたかった。けれどとにかく苦しくて辛くて海まで行く元気が無かったものだから、すぐ近くの河原に向かった。晴れていて、日差しはまだ強く、生い茂った草の周りには大きなクマバチが飛んでいて、夏の延長のような気配があった。でもからっとした空気にはうっすらと秋の匂いがするようで、それだけで理由も無いのに泣けてくるほどだった。

河原を歩くと、その日のことを思い出してしまう。なぜ死んでしまわなかったのだろうという後悔も感じる。あの日死んでいれば、もう何も感じなくて済んだのに。
でもそれは「多分」とつけて語られなければならないだろう。なぜなら死んでしまったことが無いため、本当に何も感じなくなるか確証は持てないからだ。あらゆる死への期待は、すべてただのわたし(たち)の希望なのであって、実際に体験したときにはその期待が裏切られる可能性は十分にある。そして死んでしまえば時はすでに遅く、生きかえろうと思っても生き返れない。でもそうだとしても、仮に後悔する結果となったとしても、そうせざるをえないことだって、あるのだ。

そういうわけで夕焼けの河原を一人とぼとぼ歩いていると、もう自殺することしか考えられなくなる。けれど「当面は死なない」と約束してしまったから死ねない。
死にたいのに生きていくというのは、健康な人が思っているよりもおそらくずっとつらいし苦しい。

もういい加減立派な大人なのにね。


この文章は泣きながら15分で書かれた。